山での「こうありたい」を手放す マインドフルネスで歩みを深く味わうヒント
山道を歩いていると、様々な思いが心に浮かぶことがあります。「もっと速く歩きたい」「あのカーブを曲がれば頂上が見えるはず」「他の人はもっと楽そうに歩いているのに」といった期待や比較、そして焦りといった感情です。特に登山経験がまだ浅い場合、こうした「こうありたい」という理想と現実のギャップに、心がざわつくこともあるかもしれません。
しかし、これらの期待や焦りが、せっかくの山歩きを苦しいものにしてしまうこともあります。では、どのようにすれば、こうした心のざわつきを穏やかにし、目の前の一歩一歩をより深く味わうことができるのでしょうか。ここでは、マインドフルネスの視点から、山での「こうありたい」を手放し、歩みのプロセスに心を寄せるヒントをお届けします。
山での「こうありたい」はどこから来るのか
私たちは日頃から、目標を設定し、それに向かって努力することに慣れています。登山においても、山頂に到達するという明確な目標があります。そのため、その目標達成に向けて自分を鼓舞したり、計画通りに進んでいるかを確認したりすることは自然なことです。
一方で、初めての山や体力に自信がない時には、不安から「もっと体力があれば」「もっと経験があれば」といった理想や、「遅れたくない」「迷惑をかけたくない」といった焦りが生まれやすくなります。また、SNSなどで見る他の登山者の様子と比較し、無意識のうちに自分にプレッシャーをかけてしまうこともあるかもしれません。
こうした期待や焦りは、決して悪いものではありません。これらは多くの場合、安全に登山を終えたい、目標を達成したいという健全な願いから生じます。しかし、これらの感情に囚われすぎると、目の前の豊かな体験を見過ごしてしまったり、必要以上に自分を追い詰めてしまったりすることに繋がります。
「こうありたい」に気づくマインドフルネスの実践
「こうありたい」という思いを手放す第一歩は、それに気づくことです。山を歩きながら、心に浮かんでくる思考や感情に意識を向けてみましょう。
歩行中に「疲れた、早く着きたいな」と思ったとします。この時、その思考を否定したり、「こんなことを思う自分はダメだ」と判断したりする必要はありません。ただ、「あ、『早く着きたい』という考えが浮かんできたな」と、あたかも空に流れる雲を眺めるように、客観的に観察します。
休憩中に他の登山者が軽快に歩いているのを見て、「自分はなんて遅いんだろう」と感じたとします。これもまた、「『遅い』と感じる思考が湧いてきたな」「他の人と比べて焦っているな」と、心の中で何が起きているのかに気づきます。
このように、自分の内面に意識を向け、そこに浮かぶ思考、感情、身体感覚を、善悪の判断を挟まずにただ観察することを「気づき(アウェアネス)」といいます。この「気づき」の練習を重ねることで、私たちは「こうありたい」という理想やそれに伴う焦りに、早めに気づくことができるようになります。
「こうありたい」を優しく手放すということ
「こうありたい」を手放すとは、目標を諦めることや、意欲を失うことではありません。それは、理想や焦りといった感情に固執せず、それらが自然に過ぎ去るのを許容する姿勢です。
心に「早く着きたい」という焦りが湧いてきたら、それに気づいた上で、一度深く呼吸をしてみましょう。息を吸って、ゆっくりと吐き出す際に、その焦りの気持ちも一緒に手放していくようなイメージを持ちます。そして、意識を足裏の感覚や、周囲の景色、聞こえてくる音など、「今ここ」の現実に向け直します。
また、身体的な不安や疲労から来る「もっと楽に歩きたい」という思いに対しても、まずは自分の身体が今どのような状態にあるのかに意識を向けます。足の重さ、肩の張り、呼吸の速さなど、ありのままの感覚を観察します。そして、「今、身体が疲れているんだな」と、その状態を否定せず、優しく受け止めます。その上で、必要であればペースを緩めたり、休憩を取ったりといった、身体の声に寄り添った行動を選択します。
「こうありたい」を手放すプロセスでは、「これで十分だ」「今の自分で大丈夫だ」という自己肯定的な感覚、すなわちセルフ・コンパッションが大切になります。理想通りに進まなくても、他の人と比較して落ち込んでも、そんな自分を責めるのではなく、優しく受け止める練習をします。
プロセスに心を寄せる豊かな歩み
「こうありたい」という理想や未来への焦りから意識を解放することで、私たちは目の前の一歩一歩、そして歩みそのものに意識を向けられるようになります。これは、登山という体験の最も豊かな部分です。
- 足裏の感覚: 一歩踏み出すたびに変化する地面の感触、登山靴の中での足の動き、筋肉の働きなど、足裏から全身へと伝わる感覚に意識を向けます。大地との繋がりを感じる瞑想的な歩行となります。
- 五感の活用: 焦らずに立ち止まり、あるいはゆっくりと歩きながら、周囲の自然に意識を向けます。木々の緑のグラデーション、鳥のさえずり、土や葉の香り、風が肌を撫でる感覚など、五感を通して入ってくる情報一つ一つを丁寧に受け取ります。
- 呼吸との調和: 自分の歩くペースと呼吸のリズムを合わせることに意識を向けます。吸う息と吐く息に注意を払い、それが歩みとどのように連動しているかを感じます。呼吸は「今ここ」に意識を戻すための強力なツールです。
このようにプロセスに心を寄せることで、私たちは山頂という一点だけでなく、そこに至るまでの道のり全体に価値を見出すことができるようになります。そして、ありのままの自分、ありのままの状況を受け入れる練習は、山を下りた日常においても、様々な期待や焦りと向き合う上で大きな支えとなるでしょう。
山での体験を通して、「こうありたい」という理想を手放し、「今ここ」の歩みを深く味わう練習は、自分自身との穏やかな向き合い方を教えてくれます。焦らず、まずは自分自身の心と体に優しく問いかけながら、心地よい歩みを見つけてください。